この記事は、『三国志演義』を江戸時代の人が翻訳した、『通俗三国志』の簡略版に基づく翻訳を中心としています。三国志演義の大筋の内容を把握するために書き始めました。第 1 回の書き出しのここでは、書き始めるにあたって、私が今改めて『三国志演義』を読もうと思った理由を書いています。『三国志演義』の内容をお読みになりにお越し下さった方は、読み飛ばして下さい。{alertSuccess}
三国志は今や、ゲームやドラマで多くの人が知るものとなっている。
かく言う私も、三国志を知ってから 20 年以上は経つ。シミュレーションゲームでは、趙雲を孫堅陣営に入れて天下統一を目指す。それが、今の自分の好きなやり方だ。どのゲームでも、義理堅い人物として設定されている趙雲。先にどこかの陣営に取られてしまうと、最後の最後まで味方にできずに終わることもある。だから、趙雲がどこにも属さないうちに配下に入れる必要があり、それを成功させるためにいつも序盤で苦労している。
しかし、三国志を知ったばかりの頃は、そんな遊び方はしていなかった。
ドラマは詳しくないのでわからないが、ゲームに関しては、やはり『三国志演義』の物語がベースとなっていることが多い。演義は、歴史の大きな流れまでもフィクションで変えてしまう形はとっていないものの、圧倒的に劉備・関羽・張飛、そして趙雲、諸葛亮のいる「蜀」びいきなストーリーだ。入門として、演義ベースの漫画から入った私も、最初はバリバリの蜀びいきだった。
ところが、三国志の世界に興味を持つと、小説の演義だけではなく、歴史書の『三国志』も読んでみたいと思うようになる。そして、演義では敵として描かれる魏、道化として描かれる呉、また三国鼎立以前の後漢朝廷にも、魅力的な人物が多くいることを知る。
今のような通信手段もないその昔に、日本の 20 倍以上も広さのある世界の中で、ある人物とある人物とが出遭うというのはまさに奇跡。そして、実際に起こった奇跡によって展開したのが歴史としての「三国志」だ。
それでも、『三国志』を読むと、
もし、この出遭いが違っていたら、どうなっていたんだろう
という想像がついつい膨らむ。
そんなことを考えるようになってから、三国志がますますおもしろくなったのだと思う。だから、三国志の世界は、歴史書の『三国志』を読むことで大きく広がることは確かだ。
しかし、『三国志』はその名の通り、魏・蜀・呉のそれぞれの王朝ごとの書物で、かつ、一人ひとりの事績を記す紀伝体の書式なため、時系列的な把握が非常にしにくい。
そういう意味で、『三国志演義』は、蜀びいきの小説ではあるが、この時代のこの世界のことを大まかに把握するのに役立つ、時系列に沿って非常によく整理された書物とも言える。
私の場合、三国志演義ベースの漫画 → 三国志演義の翻訳 → 三国志の翻訳という順番で読んでいったから、演義も一度読んではいる。
だが、ゲームで趙雲を擁する孫堅軍で戦うことがしっくりくる状態になってから、自ずと黄巾の乱発生以降の 20 年くらいしか見ていないことが多くなってしまった。
ゲームは娯楽でやるのだから、孫堅が後漢王朝を滅ぼさずに、趙雲、荀彧を配下に従えて天下を統一するという、非常にゲーム設定上数々の難所があるところをクリアして達成できれば満足するので、それはそれだ。
それにしても、せっかく一度『三国志演義』を読んで、黄巾の乱から始まって最後は晋に収束するところまでを見たのに、最近はすっかり視野が狭くなってしまっていた。
想像力は、人間が行動していく上で基盤となる力だ。
といっても、何を材料にその力を磨いていくか。私の場合は、やはり三国志がとても好きなので、これを材料にしたい。
実際に展開した歴史は『三国志』に書かれているが、私はどんな「三国志」だったらよかったと思うのか。そのような展開になるためには、何がどうあればよかったのか。
それを改めて考えてみるために、まずは時系列のおさらいに『三国志演義』を再読しようと思った。
そんなことを考えたところで過去は変わらない。だが、これからの自分に役立てることができる。自分が三国志を材料に何を想うのか。想像することは、自分以外の視点からものごとを見ようとする力を養う。またそれと同時に、そういう視点を持ち得た自分自身を発見することもできる。
人はよく分からないものを恐れる。世の中分からないことだらけだが、自分自身のことですら、実際のところよくは分からないのだ。それが少しでも何かわかるだけで、ずいぶんと心が元気になる。
さて、具体的にどうするかと考えたとき、ちくま文庫の『三国志演義』(全 7 巻)を持っているからそれを再読するのもよいが、大筋の把握としてはやや冗長になると思った。
そこで以前に「国立国会図書館デジタルコレクション」で見つけていた、『通俗絵本三国志』が使えると考えた。実際に江戸時代に刊行されたものは、『三国志演義』と同等の長さのものだが、明治時代に活字になって刊行されたものの中に、コンパクトに 1 冊の長さに収められた簡略版を見つけたので、それを利用することにした。
元々漢文で書かれていたものを江戸時代に翻訳したもののダイジェスト版なので、基本的に文体は漢文書き下し文の様相になっている。しかし、漢文は書き下してしまえば古文だから、三国志を古文で読めるというのは、何だかお得な気がする。昔の人の労苦に感謝。
それをただ読んでもよいが、どうせならきちんと今のことばに直してみようと思い、せっかく直すなら公開してみることにした。そして、ついでに歴史書の『三国志』との違いもできる範囲で調べてみようと考えた。前に演義を読んだときはあまり三国志のことはよく知らなかったが、今はだいぶ見通しもつく状態になったので、演義を読んでいるとその点は気になるからだ。
演義の中の虚と実がわかることで、『三国志演義』の作者がどのような想像力を働かせたのかが見えてくる。今の自分の想像力は、非常に呉びいきに凝り固まってしまっているから、他者の例を参考に、自分なりの「三国志」解釈を構築する足掛かりにできればと思う。
当サイトで利用している『通俗絵本三国志』の原文をお読みになりたい方は、以下のリンク先よりご覧ください。明治の本なので、ひらがなが変体仮名になっていて読みにくいですが、読めなくはないものです。⇒ 月乃舎秋里 編述『通俗絵本三国志』,[福老館],[明治21]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1229457 (参照 2026-04-26){alertSuccess}
※ 尚、本記事の三国志演義の本文は、この本をベースに私が翻訳したものですが、テストの解答のような逐語訳性や正確性にはこだわっていません。あくまでも、内容を大まかに把握するために作成しているものですので、ご了承ください。
[通俗絵本三国志 1]No. 5
天地を祭り桃園に義を結ぶ
そもそも天には法則があり、人には宿命がある。陰陽の変化にどうして終わりがあろうか。いや、終わりはないのだ。
漢の高祖は、かつて剣を抜いて秦の乱を平定し、東征西討して遂に四百余年の基業を開いた。しかし、霊帝に四海を保つ徳行は無く、十常侍が政権を専らにした。これにより、天下は鼎の沸く如くに乱れ、遂に三国鼎立の乱世となった。
その源を尋ねてみると、鉅鹿郡というところに、張角、張梁、張宝という三人の兄弟がいて、南華仙人から妖術を習い覚え、人民を惑わしていた。張角は自らを天公将軍と称し、兵を挙げた。その勢力はおよそ百五十万人で、皆黄色い旗を立て、黄色い絹で頭を包んでいた。世の人はこれを黄巾の賊と呼んだ。
このことが都(洛陽)に伝わったので、霊帝は深くこのことを憂慮して、盧植、皇甫嵩、朱儁の三名を大将にし、三手に分かれて追討させた。
この頃、涿郡の楼桑村に、劉備、字は玄徳という人がいた。中山靖王の後裔で、礼儀があり、容貌は気高く、両耳は肩に垂れ、筵を編むことを生業として、その母を養っていた。この時、劉備は二十八歳だった。
ある日、劉備が路傍の立て札を見て、天下が乱れていることを嘆き呟きしながら家路を辿ろうとすると、後ろから声を掛ける者がいた。振り返って周囲を見渡すと、声の主は非凡な風貌で眼差しが鋭く、あごには虎ひげをたくわえていた。そして、雷のように大きな声で言った。「わしは涿郡の張飛、字は翼徳と申す。貴殿には、漢の社稷をお助けする心意気があるとお見受けした。わしも、貴殿と心を同じくして、世の乱れを救おうぞ」。
それを聞いて劉備は大いに喜び、張飛を自分の家に連れて帰って相談をしていたところ、隣の酒屋で酒を飲んでいる者がいる。その様子は、鳳凰のように目尻がつり上がった眼、蚕のようにたくましい眉で、威風堂々としており、世間一般の人とは違っていた。
劉備が我が意を得たりとその名を問うと、「河東郡解良県の生まれで、関羽、字は雲長という者です」と答えた。そこで、劉備が張飛と話していたことの次第を告げると、関羽ももちろん社稷をお助けする志があったので、即座に仲間に加わった。
こうして三人は張飛の家の桃園に行き、馬を供えて天地を祀り、「生まれた日は違っても、同じ日に死のう」と誓い、義兄弟になった。劉備が年長であったので長兄となり、次兄が関羽、末弟を張飛とした。
そして、土地の者を集め五百騎を率いて、太守劉焉の下へ行き、その大将鄒靖と共に、黄巾賊の将程遠志を攻めることとなった。
『通俗絵本三国志』第 1 話
文中の鉅鹿郡、涿郡などの位置を確認されたい場合、「国立国会図書館デジタルコレクション」の資料から見つけた、以下に示すリンク先のものが比較的よいと思います。縮尺は正確でなく、不鮮明なところもややありますが、演義を読む上で必要な地名が大体入っています。(涿や河東の脇には、玄徳生、関羽生とまで書いてあります。)今回の舞台は、この地図上、右上の方になります。⇒ 清水市次郎 和解『絵本通俗三国志』巻1,清水市次郎,明15-17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/878061/1/4 (参照 2026-04-26){alertSuccess}
登場人物について
今回、文中に出てくる人物はほぼ歴史上の実在人物だが、南華老仙と程遠志はフィクションだ。
南華老仙とは荘子のことで、荘子自体は実在の人だが紀元前の人で、時代が 500 年ほども違う。張角たちは宗教団体だから、この頃には神格化されていた荘子を仙人として登場させて教えを授かったとすることで、「怪しげな呪術を用いる集団」として演出しようという意図だろう。
程遠志は、このあと関羽に斬られるために登場する架空の人物。演義では、関羽、張飛、趙雲に斬られるために出てくる架空の人物が多くいる。蜀陣営を印象づけるために、これも必要な演出だ。
『三国志』との相違
先ほど挙げた架空人物 2 名を除けば、大筋の話は歴史書の『三国志』と一致するが、以下のような相違点はある。
- 黄巾軍の兵力は、「孫堅伝」の記述からすると、約 36 万。
- 黄巾の乱発生時の劉備の年齢が違う。
- 黄巾の乱発生時から関羽、張飛は劉備の下にはいたが、出遭いのエピソードは歴史書にはなく、桃園結義は演義のフィクションである。
- 劉焉は北方で刺史をしていたこともあるが、劉備のいた涿郡の太守をしていたことはない。
黄巾軍の兵力を水増ししているのは、架空の人物まで出して見せ場をつくるには、単純に数が足りないからだろう。(この簡略版では省略されているが、架空の程遠志だけで 5 万の兵を率いている。それでも、ここは簡略版作者の書き間違いのようで、四、五十万とすべきところらしい。百五十万はさすがに多すぎると思う。)
以下の相違点については、少し詳しく見ていく。
劉備の年齢について
黄巾の乱の発生年は 184 年なので、実際の劉備の年齢はこのとき 24 歳。『三国志』の「先主伝」によると、劉備は 223 年に 63 歳で亡くなったとあるので、そこからの計算だ。
この時代の年齢は、今のように誕生日を基準とした満年齢ではなく、生まれた年に 1 歳とする数え年だ。誕生日は関係なく、皆一律に元日に年を取る。223 - 63 + 1 = 161 で劉備の生年は 161 年となる。また、184 - 161 + 1 = 24 で、黄巾の乱時は 24 歳となる。{alertSuccess}
丹念に歴史書の『三国志』を踏まえて書いている演義で、あえて 28 歳とするのはなぜだろう。それは、演義では、どうしても劉備を長兄、関羽を次兄、張飛を末弟としたいからではないか。
24 歳の劉備が長兄だと、1 歳違いにしても、関羽 23 歳、張飛 22 歳で、だいぶ若くなる。また、「張飛伝」には、関羽の方が張飛より数歳年上だとある。「数歳」を 3 か 4 としても、関羽が 23 歳なら、張飛は 20 歳か 19 歳になってしまい、かなり若くなってしまう。
この簡略版ではカットされているが、実際の『三国志演義』では、関羽も張飛も劉備に出遭うまで、それなりの人生経験を積んでいることになっているので、あまり若いと矛盾する。それで、劉備は 28 歳ということになったのではないか。そのぐらいなら、2、3 歳ずつ違っても、20 代には収まる。
実際には、主君としての劉備は年下でも問題ないだろうが、この三人を「義兄弟とする」となると、長兄はやはりこれから始まる物語前半の主人公たる劉備、となるだろう。幸いなことに、関羽も張飛も亡くなった年はわかるが享年がわからないので、このときの年齢は不明だ。
そういうことで、劉備は 28 歳で長兄なのだと思う。
桃園結義について
関羽、張飛は、黄巾の乱の発生年には既に劉備と行動を共にしていたし、劉備にとって二人が特別な存在だったことは、歴史書の『三国志』からもわかる。しかし、前述の通り、この三人の出逢いから結義までのエピソードはフィクションだ。
劉備にとって二人が特別な存在だったことは『三国志』からもわかる、とは言ったが、実際のところ劉備の伝にあたる「先主伝」には、二人に関する記述は少ない。関羽、張飛は劉備陣営最古参の武将だから、度々名前は挙がってくるが、特別な関係を示すような記述は特に無い。唯一、関羽も死んで張飛も死んだとき、劉備は孫権の討伐に向かい、関羽を殺した孫権を決して許さないという、並々ならぬ怒りを示したことが書かれているのみだ。
むしろ、その特別な関係性は他の人物の伝に表れていて、以下のようなものがある。
- 劉備は、関羽、張飛と起居を共にし、その恩情は兄弟のようだった。「関羽伝」
- 劉備が曹操に敗れて、関羽が一時的に曹操の下にいたとき、関羽は「劉将軍(=劉備)と共に死ぬことを誓った。これに背くことはできない」と言った。「関羽伝」
- 関羽の方が張飛より数歳年上だったので、張飛は関羽を兄のように慕っていた。「張飛伝」
- 劉備は、孫権を討って関羽の恥を復せんとした。「法正伝」( ⇒ つまり、孫権討伐は関羽の仇討ちだったことが明記されている。)
- 孫権討伐については、多くの群臣が劉備を諫めたが、劉備は全く聞き入れなかった。劉備が負けて帰ってきたとき、諸葛亮は「法正が生きていたら止められたのに」と言った。「法正伝」( ⇒ つまり、諸葛亮には止められなかった。それほど怒っていた。)
ちなみに、「趙雲伝」にも、趙雲がこの孫権討伐を止めようとして、劉備に進言するという一節がある。当然、劉備は趙雲の言うことも聞かなかった。ただ、こちらは『三国志』の本文ではなく、後の時代に裴松之が付けた注の記述なので、信憑性は下がるかと思う。
ともかくも、義兄弟と言うには、まさに桃園結義のような誓いを共に立てる儀式を経る必要があるわけだから、そういうことがあったと歴史書には書いていない。
それでも、上に挙げたような記述を見ると、関羽、張飛は劉備がまだ何者でもなかった頃から付き従っていて、何べんも敗走しては生き残り、本当に苦楽を共にしてきたわけだから、他の配下とは一線を画していただろう。
歴史書にも、関羽が劉備と共に死ぬことを誓ったとは書いてある。であれば、劉備、関羽、張飛の三人の出遭いにこんなことがあったのではないかなと、『三国志演義』の作者羅漢中が想像力を働かせた結果が、この桃園結義というわけだ。
フィクションではあるけれど、そんなこともあったのかもしれないと思える材料があって、それを基にしていると考えると、物語のオープニングにふさわしいエピソードだと思う。
劉焉について
ここでは、劉備たち三人が最初に挙兵する、その行く先として郡の太守というのが必要なだけだから、別に具体名を出す必要はほとんど無いとも言える。実際、歴史書の方では、校尉の鄒靖の名が出てくるだけだ。
しかし、実際にはそんなところに赴任したこともない劉焉の名前をあえて出したのには、それなりに意図があるようだ。
劉焉は、ちょうど張角たちの出身地の鉅鹿郡を含む、冀州の刺史を務めたことがある。冀州は、劉備たちのいた涿郡を含む幽州のすぐ南に位置する。だから、一応、近いところにはいた事実があるし、何よりその後、益州の州牧になる人物だ。
益州は、最終的に劉備が本拠地として蜀の国を建てる場所。劉備が益州に入る頃には劉焉は亡くなっていて、子の劉璋の代になっているから、演義でも過去の因縁が語られることは無い。それでも、あえてここの太守として劉焉の名を出すことで、劉備と益州との縁をさりげなく盛り込んだ、というところだろうか。
歴史書の『三国志』は、例えば現在文庫版の翻訳として入手できる「ちくま学芸文庫」だと全 8 巻だが、そのうち「蜀書」は 5 巻の一冊だけだ。そして、その一冊の本の出だしは、劉備の伝である「先主伝」ではなく、「劉焉伝」から始まる。
ただでさえ分量の少ない「蜀書」を開いて、いきなり「劉焉伝」とあったときには、「なんで劉焉 ???」と思ったものだ。しかし、『三国志』は中国の三国時代の歴史書なのだから、当然のことではあった。三国時代、劉備が初めから蜀にいたわけではないのだから。
そう考えると、ここで太守劉焉が登場するのは、意味があるなと思えてくる。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。次回は、斬られ役の程遠志が斬られます。お楽しみに。
画像の出典
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ちなみに、「通俗絵本三国志」と銘打ってある本の挿絵はどれもこんな感じの画風です。みんな髭もじゃら。『三国志演義』の本文を日本人が翻訳して、それに挿絵を入れた際に挿絵も当時の日本人が描いたので、こんな感じです。浮世絵風で、とても和テイストです。「ちくま文庫」の『三国志演義』に入っている挿絵は中国の人が描いたものなので、これとはまた随分感じが違います。いずれにしても、昨今のゲームのキャラクターのイメージとはほど遠いですね。
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