この記事は、『三国志演義』を江戸時代の人が翻訳した、『通俗三国志』の簡略版に基づく翻訳を中心としています。当サイトで利用している『通俗絵本三国志』の原文をお読みになりたい方は、以下のURLよりご覧ください。今回分のところからになります。→ 月乃舎秋里 編述『通俗絵本三国志』,[福老館],[明治21]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1229457/1/13 (参照 2026-04-28){alertSuccess}
※ 尚、本記事の三国志演義の本文は、この本をベースに私が翻訳したものですが、テスト解答のような逐語訳性や、正確性にはこだわっていません。あくまでも、内容を大まかに把握するために作成しているものですので、ご了承ください。また、簡略版が省略しすぎて、詳細がよくわからないところについては、適宜、ちくま文庫版の翻訳を手がかりに、本来の『三国志演義』も、参照しています。『三国志演義』の原文は、中国語版ウィキソースで公開されています。
[通俗絵本三国志 2]No. 6
劉玄徳、黄巾の賊を破る
さて、劉備が五百余騎を率いて、大興山(たいこうざん)の麓まで攻め寄せると、賊の副将、鄧茂という者が打って出た。そこで、張飛が丈八の矛を引っ提げてこれと渡り合い、たった一合の打ち合いで相手を馬から下へ突き落として、余裕たっぷりに引き返した。
賊の大将の程遠志は、この様子を見て大いに怒り、馬を飛ばして打って掛かる。すると、関羽が側面から躍り出て、これも馬から下へと斬り落とす。
大将を討たれた賊軍は、どうやって持ちこたえることができようか。みな浮足だって乱然となり、降参した。そこで、劉備の軍勢は勝ち鬨を上げると、部隊を集結させ、次は劉龔を救おうと、青州を目指して出発した。
青州の賊軍は、援軍が来るのを見て、兵を二手に分けていた。そのため、劉備の軍勢は、賊軍としばらく乱戦状態になった。賊軍は大軍で、新手を入れ替え入れ替え挑んできたので、劉備側は動揺して統率が乱れ、後退した。しかし翌日、伏兵を用いて賊軍を攻め立て、大敗させることに成功した。
次に(張角が籠城する)広宗に行き、盧植の軍勢に加わった。盧植は、劉備を丁重に迎え、「皇甫嵩、朱儁の軍勢を援護するように」と命じた。劉備は、「謹んでお引き受け致します」と言って、潁川に着陣した。
ところが着いてみると、皇甫嵩と朱儁は、沛国の曹操、字(あざな)は孟徳という、世に並びなき英傑と共闘して、賊軍を制圧したあとだった。
それならば涿郡に帰ろうと、早速出立したところ、山の後ろから、鬨の声が頻りに聞こえる。丘を登って見てみると、「天公将軍」と記した旗を押し立てて、(張角率いる)賊軍が、勢いに乗って官軍を追い立てている。そこで、劉備の軍勢五百余騎が、一気に打って出て不意を突くと、賊軍は大混乱に陥り、「伏兵だ」と叫びながら、我先にと退却していった。
こうした次第で、劉備の軍勢が再び朱儁の陣営に引き返したところ、朱儁は大いに喜んだ。
そして、劉備を先陣として、羊や猪の血などの穢れたものを浴びせかけて、敵の妖術を破り、陽城に敗走した張宝の首を、遂に斬った。
また、呉郡の孫堅、字(あざな)は文台、という英勇と共に、南陽の地を平定した功により、朱儁は車騎将軍・河南の尹に任命された。劉備も、中山府(ちゅうざんふ)・安喜県(あんきけん)の尉(い)となった。劉備は、よく民を憐れんで仁政を施したので、人々はみな喜び合っていた。
こうしたさなか、劉備の身に、一つの難儀が持ち上がった。それは、どうしたわけかというと、この黄巾の乱では、戦功も無いのに、賄賂などを使って高官に昇った者があったため、帝(みかど)は州郡に詔を下して、その虚実を正そうとした。それにより、安喜県にも、その任に当たる督郵がやって来た。この督郵がいかにも無礼で、劉備を無実の罪に陥れようとした。
張飛が大いに怒って、雷のような大声を上げて言った。「国を売り、民を害する逆賊め。この張飛を知らないのか」。そして、督郵を引きずり出して、近くにあった柳の古木(こぼく)に縛り上げ、ムチを取って散々に打った。
そこへ、劉備が駆けつけて、これを止めようとしたところ、関羽が言った。「兄上(あにうえ)には、莫大な功績があったにもかかわらず、督郵なんぞに、侮られています。私は、これをどうすることもできないのを、恥に思います。いっそ故郷へ帰り、新たに計画を立てたほうがよいでしょう」。
そこで結局、「お前は殺すべき輩だが、今は助けておいてやる」と言って、尉(い)の印綬を督郵の首に掛け、それから涿郡の家族を呼び集めて、代州の劉恢のところへ行き、ことの次第を打ち明けて匿ってもらった。
『通俗絵本三国志』第2話
地名について
文中に出てくる地名のうち、青州、潁川、涿郡、南陽、河南、中山府(ちゅうざんふ)、代州については、前回紹介した、以下のURLにある地図上で確認できる。
清水市次郎 和解『絵本通俗三国志』巻1,清水市次郎,明15-17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/878061/1/4 (参照 2026-04-26){alertSuccess}
地名に関しては、同じ三国時代の中でも変動したりして、とても複雑だ。実際、上記の地図は、「三国鼎足の図」というタイトルになっているから、まだ、魏・呉・蜀が鼎立する以前の地名や行政区分とは、異なると思われる部分がある。
その辺りの異同は、当然、三国志の時代から千年以上も経ってから出た、演義においてもあり、中山府(ちゅうざんふ)、代州という行政区分で表現するのは、後漢時代のそれとは一致しない。
丹念に、歴史書を読み込んでいる演義の作者なら、そこをより正確に表現することは、不可能ではないのだろう。だが、そこにこだわったところで、かえって当時の読み手にとってはわかりにくくなる、という配慮もあって、あえて正確にはしていないのだと思う。(恐らく、同じ意図での不正確さは、役職名においても見られる。)
私としても、大体、どの辺りで起きたことなのかを知りたいだけだから、地名として位置が確認できれば、それ以上はこだわらないことにしておく。
その他の地名について
上記の地図に載っていない地名で、一番謎なのは、劉備たちの初陣の地の、大興山(たいこうざん)なる場所だ。(大きく興る山、と書く。)三国時代の一般的な地図では、場所を確認できないし、この戦いの具体的な描写自体がフィクションだから、架空の地名ということになるだろう。
ただ、演義に先行する物語『三国志平話』の中で、劉備たちが「太行山(たいこうざん)」で大暴れするという一幕がある。(こちらは、太く行く山、と書く。)そして、太行山脈という地名が、現代の地図でも確認できる。三国時代、そこは幷州に区分されていて、幽州からではかなり遠い。
だから、直接、現在の太行山脈の山と、演義の大興山(たいこうざん)とが同じではないだろうが、この架空の地名は、多分に、それを意識したネーミングなのだと思う。そんな具合で、劉備たちの故郷の涿郡に近い、どこかの山としての大興山(たいこうざん)ということになるかと思う。
残りの地名、盧植がいた、広宗は、張角たちの出身地、鉅鹿郡内の県だ。また、張宝が敗走した陽城は、洛陽の南東に位置し、このときは潁川郡内の県だ。
ちなみに、演義の都合上、張宝は初め潁川にいて、陽城に敗走して死んだことにされているが、実際に死んだのは、鉅鹿郡内の下曲陽県(かきょくようけん)だ。史実の張宝は、潁川の方面には行かなかった。
登場人物について
鄧茂、程遠志は、それぞれ張飛、関羽に討たれるための架空人物。劉龔、劉恢も、劉備の行く先の主人としての、架空人物だ。
それ以外の人物は、歴史書で確認できる実在人物で、具体名のない督郵も、「先主伝」に記述がある実在人物だ。
黄巾の乱で、大いに劉備軍を活躍させる回
さて、ではまず、この回で起こった戦いを整理する。
簡略版では、董卓の登場など、細かい描写がかなり省略されてはいるが、劉備たちが参戦したとする戦いは五つなので、数としては全部書かれている。
本当に、これほどの功績があったなら、文中で関羽が言っている通り、「莫大な功績があった」ことになるだろう。いずれの戦いでも、劉備たちはただそこにいただけではなく、大将を斬る、策を用いて劣勢を跳ね返して勝つ、大軍を寡兵で追い返すという大活躍を、彼ら自身でやってのけるのだから。
劉備には莫大な功績があったにもかかわらず、低い官職しか与えられず、挙句の果てに、悪どい督郵に「賄賂をよこさなければ、戦功を偽ったと報告するぞ」と脅される。物語は、
そんな理不尽なことがあるかっ!!!
と読者も怒り、その後の劉備一行の行動を、支持したくなるように展開している。
単なる推しという次元ではない蜀びいき
ここで、今回の内容について、歴史書との相違を見ていく前に、演義には踏まえておくべき、無視できない背景があると思うので書いておく。
神様を擁する蜀陣営
『三国志演義』は、中国の明代(みんだい)に書かれた小説だ。正確な刊行年は不明だが、現存する最古の本は、1522年に出版されている。その頃の日本は、室町時代の末期だ。
そんな時代に、ここまでの「蜀びいき」で物語を展開する理由は、単に「蜀が、好きだから」ではない。大きく影響を与えているものに、やはり神様になった「関羽」の存在がある。横浜にある関帝廟の関帝とは、関羽のことだ。また諸葛亮も、演義成立の頃には、神格化した存在になっていた。
歴史上の人物を神様のように崇めるというのは、日本の例で考えると、
心理としては「判官びいき」(源義経)で、形態としては「天満宮」(菅原道真)という感じだろうか。
「蜀漢こそ正統」という流れの中で登場した演義
また、関羽らの神格化と同時進行で、「蜀漢正統論(しょくかんせいとうろん)」の浸透も進んで行く。
蜀漢正統論|後漢の正統な後継王朝は、劉備の興した蜀であるとする考え方。そもそも蜀という呼び方は正確ではなく、劉備は漢の皇帝になっている。(知らなかった!)しかし、それだと、それ以前の漢との区別が付かないので、便宜上、劉備が興した国を蜀漢と呼び、蜀漢正統論(しょくかんせいとうろん)という呼称になっている。{alertSuccess}
この「蜀漢正統論(しょくかんせいとうろん)」とはどんなものかと考えたとき、日本にも似た例があったと思い当たった。
1300年代のいわゆる南北朝時代には、日本に北朝、南朝の二つの朝廷が並立した時期があり、そのいずれを正統とするかの議論が存在してきた。そして、明治時代の決着点として、南朝が正統とされた。だが、その南朝を見捨てた足利尊氏が、北朝を建てて室町幕府を開いたので、現在の皇室が継承しているのは、北朝の系統である。
そのため、どちらを正統とするかには、なかなか決着が付かなかったのだろうが、ひとたび決着してしまえば、正統である南朝の後醍醐天皇を見捨てた足利尊氏は、逆賊という扱いになる。また、最期まで南朝側で戦った新田義貞、楠木正成は忠臣となり、明治時代には、その忠節を称賛する書物が数多く出版された。
もちろん、こうした考え方を強固にし加速化したのは、明治時代の「南朝を正統とする」という決着だっただろう。だが、それ以前から、やはり判官びいき的に南朝正統論はあり、水戸黄門で有名な、水戸光圀の『大日本史』は、南朝を正統としている。
室町幕府の成立が1336年、『大日本史』の編纂は、1600年代から始まる。その間には、軍記物語の『太平記』も出ている。『太平記』は『平家物語』と同様に、文字で読まれるだけでなく、法師によって語られもして、庶民にも浸透していったものだ。
大衆の読み物と、歴史書の歴史観との両輪で、負けたほうの肩を持ちたくなる心理が、次第に世の中に醸成されていったのだろう。そんな到達点として、明治時代の決着と、足利尊氏、新田義貞らへの評価があったわけだ。
これは、まさに『三国志演義』が出たときの、「蜀漢正統論(しょくかんせいとうろん)」と、曹操、関羽らへの評価と、とてもよく似ている。
三国時代は、280年の呉国の滅亡で終わる。そして、そこから『三国志演義』が出るまでには、千年以上の年月が経過している。関羽が、関帝になるまでに神格化されていくのには、演義の登場による影響が大きい。だが、やはりそれ以前に既に、長い時間をかけて民衆の中で形成されていた想いがあった、ということだ。
『三国志演義』が、突如小説として現れるのではない。そうした人々の想いが、そこまでに多くの物語を生んでいて、語られていて、その集大成として登場する。そして、演義が登場する頃には、それまでに唱えられてきた「蜀漢正統論(しょくかんせいとうろん)」も、隆盛になっていた。
もちろん、国も時代も違うので、それぞれの正統論が唱えられるようになった背景は異なる。だが、朱子学の影響を受けて正統論が登場し、それまでに民間に流布していた、個々の武将たちへの想いと融合しながら、世の中の考え方が形成されていったところは、本当に似ていると思う。
かくして、『三国志演義』において、逆賊は曹操であり、忠臣は関羽、諸葛亮である。そして、その関羽、諸葛亮は、演義登場時点で、既に神様的な存在だ。
相手が神様では、到底、曹操にも孫堅にも勝ち目は無い。ましてや、曹操は「蜀漢正統論(しょくかんせいとうろん)」によって逆賊だし、孫堅は息子の孫権が関羽を殺してしまったのだから、もう大変だ。演義における呉国の人たちの扱いは、本当に気の毒なものになっている。
演義は小説というより、正統派「蜀びいき」のためのバイブル
前回の「桃園結義」の描写は、素晴らしい想像力だと素直に思えたけれども、早速、第2回で非常に強固な「蜀びいき」を突き付けられてしまった。まともに受け止めると、今や「推しは呉国」の自分にはダメージが大きいので、
演義における蜀びいきは、推しという次元ではなく、思想である
と、しっかり認識した上で読むことが、重要だと思った。
そういう認識に立たないと、
なんで、なんでもかんでも三兄弟の手柄にするかなあっ!!!
という怒りの感情が湧く。冷静さを欠くと、作業が止まってしまう。
演義は、この物語が成立した時点での、世の中の考え方を反映したものだ。日本の「南朝正統論」もまた、その当時の世の中の考え方を反映したものだ。だから、その当時の考え方を知る手がかりとすればよいのであって、
「今」の世の中を生きる人は、その考え方に縛られる必要は無い
ものなのだ。
実際、近年は、従来の考え方に縛られない研究が可能な状況であり、曹操も、足利尊氏も、従来とは違った見方がなされるようになってきている。
話がそれたけれども、今後もずっと、演義はこんな調子の正統派「蜀びいき」で進んでいくから、蜀に関する記述を、「どうせこれも演出だろう」と決めてかかってしまえば、見つかるはずの史実を見落とす確率が、格段に上がってしまう。また逆に、呉国にとって不利な情報を、見落とす確率も上がる。
普通にしていても、割と客観的に見ることができそうなのは、自分にとっては一番遠い魏に関すること、という状態なのが非常に皮肉めいているが、それが今の自分の実情だ。強固な蜀びいきに心を乱されることなく、また自分の「推しは呉国」の思いに捉われることなく、改めて三国志の世界を見通していくために、心構えとして忘れないよう、書き記した。
閑話休題ということで、今回の内容の、歴史書との相違を見ていく。
歴史書と一致する軍功は一つ
先にまとめたように、この回で、劉備たちが参戦して軍功を上げたとされる戦いは五つあった。そのうち、歴史書の『三国志』と照らし合わせて史実と重なるのは、最初の涿郡での戦いだけだ。
「先主伝」に書かれている内容は、
- 涿郡で馬の商いをしていた豪商が、劉備の並でない容貌を見て多大な援助をしてくれたので、劉備はその資金で仲間を集めた。
- 霊帝の末に黄巾の乱が起き、州郡は各々、義兵を募った。劉備は、仲間を率いて校尉の鄒靖(すうせい)に従って黄巾の賊を討ち、功が有って、安喜県(あんきけん)の尉(い)に任命された。
というもので、黄巾の乱における戦いに関して、それ以上のことは書かれていない。
「関羽伝」には、
劉備が郷里で仲間を集めたとき、関羽は張飛と共に劉備の護衛に当たった。
とあるので、このときから彼ら三人が一緒にいたことがわかるが、それ以上のことはやはり書かれていない。
「張飛伝」にも、この頃のこととしては、「若い頃、関羽と共に劉備に仕えた」とあるのみだ。だが、最後のほうに、
張飛の雄壮威猛(ゆうそういもう)っぷりは、関羽に次いでいた。魏の謀臣の程昱たちはみな、彼らが一万人にも匹敵するほどの武勇がある、と称賛していた。
という記述がある。関羽と張飛とが、かなり強い武将であったことは、ここからわかる。
歴史書は、もしかしたら一騎討ちのようなこともあったのでは、と思われる場面でも、ただ「斬った」とか「打ち破った」とか書くだけなので、そもそも、ここに何か書いてあったとしても、その程度ではある。
「丈八の矛で討ち取った」なんてことは書かれていないのだから、ゲームでよく見るいわゆる得物の類いは、ほぼ演義が出どころのものだ。武器に関しても、地名や役職名と同様に、演義の作者は、物語成立時点での読者へのわかりやすさを優先していて、実際に三国時代ではどうだったかは考慮していない。
ともかくも、歴史書で確認できることはこれだけだから、黄巾の乱が起こったとき、涿郡で劉備がその討伐に関羽、張飛と共に参戦し、戦功があったのは史実だが、具体的な描写に関しては、フィクションである。
常套の演出手法を用いた華々しい幕開け
だが、歴史書通りに書くだけなら小説にはならないから、ここは史実に基づいた上手い演出、と言ってよいところだ。
演義は、先に見たように、語られる物語として受け継がれてきたものを基盤としていて、またそれが語られることも、当然想定しているものだ。そこで、ただ「斬った」「打ち破った」では、全く観客は盛り上がらない。
首領格の張角や張宝を斬った、とまでしてしまったらやり過ぎだ。だが、名前が記録に残っていなくても、涿郡の反乱の現場に、そのリーダー格の人物はいただろう。だから、張飛用(→ 鄧茂)、関羽用(→ 程遠志)に、一人ずつ架空の武将を用意して、バッサ、バッサと斬り落とすのは、実に痛快だ。ましてや、これは劉備たちの初陣なのだから、魏の謀臣たちをも唸らせた、関羽、張飛の武勇が全開して、華々しい幕開けとなっている。
さらに、(日本で刊行された「通俗三国志」の系統のものでは、この簡略版に限らず、省略されてしまっているようなのだが、)本来の『三国志演義』では、ご丁寧にこのあと、その活躍を褒め称える「漢詩までお付けしています!」という、念のいりようなのだ。
- 適当な人物が歴史上にいなければ、架空の人物を作ってでも、一騎討ちを演出する。
- 武将たちの活躍のあとには、それを称揚する漢詩を付ける。
この二点は、蜀陣営のことを書くときに限らず、エンターテインメントとしての演義が常套する手法だ。
劉備たちの初陣は、この手法をバッチリ使って、物語全体としても最初の戦場となる場面を盛り上げている。
その他の四つの戦いについて
黄巾の乱のときの劉備たち三人の事績について、歴史書で確認できることは先に見た通りだから、その他の四つの戦いにおける彼らの行動は、すべてフィクションだ。
といっても、歴史書に無いから事実としても無いとは言えないわけで、関羽、張飛という万夫不当の武将を二人も抱える劉備が、このくらいの活躍をしていたっていいじゃないかと、正統派「蜀びいき」の演義の作者が、ここで想像力を働かせるのは当然だ。
逆に、「歴史書に有るから事実とも言えない」という認識も重要だ。あくまでも史実であって、書いてあることが全部、本当のこととは言えない。これは現代においても、情報に誤りや捏造があることからも、容易に想像がつく。そして、時間が経っても話題になるのは、人々の関心が衰えていないからだが、厄介なことに、その時代状況を反映した尾ひれが付く。歴史書は、新聞ほどの速報性をもって書かれたものではないから、そこも考慮に入れる必要がある。{alertSuccess}
しかし、話を盛るにしてもやり過ぎな面はあり、なんで演義の作者は、こんなにフィクションを盛り込んだのかと考えてみた。
- このあと、ストーリーは次の討伐対象である「董卓」登場のための下準備段階に入り、劉備たちはしばらくお休みになるから、もっとここで活躍させておきたい。
- 物語の主人公たる劉備は、最初から歴史の主要場面に関わっているべきだし、魏・呉・蜀の三国を形作る他の英雄たちと、肩を並べる必要がある。
- 督郵をムチ打って、官を棄てて逃亡するからには、安喜県(あんきけん)の尉(い)程度では余りあるほどの、軍功がなければならない。
と、そんなことで、かなりムリをして大活躍をさせたのではないかと思う。
結果として、このあとの、朝廷内のドロドロ内輪もめストーリーに、しばらくはおとなしく聴き入れるだけの、気持ちの余裕が観客に生まれるような、非常に小気味よい活劇になり、督郵をムチ打つのも当然だ、という流れになっている。
読者が歴史書を手に取ることを、想定していない演出
小説としての『三国志演義』のこの演出は、当時の読み手、聞き手にとって、満足に値するものであったはずで、恐らくは、その受け手たちが後日、歴史書の『三国志』を手にすることは、想定していないのだろう。
今の日本では、小説『三国志演義』も、歴史書『三国志』も、共にリーズナブルな価格の文庫本で読めるが、それよりももっと手軽な、ゲームや漫画などが豊富にある。だから、『三国志』どころか『三国志演義』でさえも、実際に手に取って読む人は少ないだろう。それを考えれば、今よりもはるかに出版事情も悪い当時に、演義の受け手たちが『三国志』を読むことは、想定するまでもないことだったはずだ。
だが、今の日本においては、読もうという気になれば、演義から歴史書へと読み進めることは困難ではないのだ。
それゆえに、演義が小説として完成されたものだとしても、そこから入った者が「蜀書」を開いたとき、
計り知れないほどの、ガッカリ感に包まれる
ことは、起こり得る事態ではないだろうか。実際、私はそうだった。
そう考えると、演義で実像以上に、蜀陣営の人物たちがスーパーヒーロー化されてしまったことは、今となってはむしろ、曹操や孫堅に対する扱い以上に、ある意味、気の毒なことなのかもしれない。
というわけで、この四つの戦いについては、劉備たちの実績としてはフィクションなのだが、すべてがフィクションというわけでもないので、以下に一つずつ見ていく。
青州の戦いについて
第二戦として、劉備たちは、劉龔という人物を救うために青州に行く。これは架空の人物だが、簡略版の作者が書き間違えたのか、意図的にそうしたのかはわからないが、本来の演義では「龔景」という人名になっている。
いずれにしても、そこからの援軍の要請が、劉焉のところにあったので、劉備たちが行くことになるという経緯だ。
この戦い自体はフィクションだが、ここで用いられている「退却すると見せかけて敵を引き込み、伏兵で撃破する」戦法は、史実では、劉備が後の夏侯惇との「博望での戦い」で用いるものだ。演義では、その戦いを諸葛亮のデビュー戦にして、この戦法を用いさせ、彼の功績にする。そのため、劉備自身がこの戦法を用いる場として、この戦いを設定したのだろう。
また、どうして行き先が青州なんだろうか。その理由を考えてみた。
- 青州はこのあと、劉備たちに関わりのある場所になる。
- 演義が採らなかった、「先主伝」にあるエピソードに、青州の地名が出てくる。
- 皇甫嵩ら官軍の討伐対象にはならなかったが、青州にも黄巾の賊はいて、後に曹操が討伐して、降伏した兵を「青州兵」として組み込む。
第1回で、わざわざ涿郡の太守を劉焉としたように、小説の演義は伏線を重視しているようだから、やはり他ではなくて青州とするのには、それなりの意図があるものと思う。
シミュレーションゲームでは、初期の頃の劉備たちが、平原に配置されていることがある。劉備が平原の相(しょう)になったことがあるからだが、平原は位置的に冀州に属するような場所にあるし、実際、三国時代に曹操が冀州に組み込むために、てっきり冀州なのだと思っていた。
しかし、後漢の行政区分では、平原は青州に含まれていた。なるほど、そういうことであれば、確かに青州は、このあと劉備と大いに関わってくる場所だ。
またそれだけでなく、三点目も演義の作者としては視野にありそうで、「曹操よりも前に、劉備も青州で賊を討伐したんだぞ」と、言わんばかりにも見える。
張角を退却させた戦いについて
盧植が広宗にいるぐらいのタイミングだと、張角はまだ死んではいないかもしれない。
しかし、張角は黄巾軍のリーダーではあるけれども、戦いの記録には、名前が出てこない人だ。広宗が落ちたとき、張角は既に病死していたことからしても、とてもこの時期に、一軍を率いて現れることはできないだろう。
しかし、演義が採らなかった「先主伝」のエピソードに、
何進が丹陽で部下に兵を募集させたとき、劉備も同行した。そして、下邳に至ったときに賊と遭い、力戦して功が有ったので、下蜜(かみつ)の丞に任命された。
とあるので、これをヒントにしたとも思える。不意に敵と遭遇して、功績を挙げた実績はあるよ、という具合に。
また、盧植が、広宗で張角軍と対峙していたのは史実で、「先主伝」によると、劉備は同じ涿郡出身の盧植に、弟子入りしたことがある。このことには演義でも触れているから、いきなり無位無官の劉備が行って、盧植のこの応対というのも、あり得ないことにはならない。こういうところは、演義が丹念に作られていると感心するところだ。
ちなみに、既に決着していた潁川での戦いに、曹操が関わっていたのも史実だ。何だかこの簡略版だと、無理やり名前だけ出したみたいな感じになっているけれども、いないはずの劉備たちがバッチリいて、本当にいた曹操がついでみたいな扱いというのも、演義ならではというところだろうか。
朱儁と共闘した二つの戦いについて
- 盧植が、張角と対峙した広宗
- 曹操が、皇甫嵩、朱儁への援軍に駆けつけた潁川
- 孫堅、朱儁が、討伐に当たった南陽
この三つの地は、いずれも官軍が黄巾軍を討伐できた主戦場で、そんなところに無位無官の劉備が関われる接点として、盧植が使われている。
盧植と会わないことには話が進まないから、まず盧植のところへ行くとして、とにかく全部に関わらせたいから、そこでは一緒に戦わず、あっちへ行き、こっちへ行きするんだろう。
曹操と劉備とはいずれしっかりと会うことになるから、ここでの曹操は名前だけの登場で、曹操が戦っていたところにまで劉備を割り込ませることは、さすがにしなかったようだ。
史実を巧みに利用した、情報操作
残るは、孫堅も関わった南陽で、この方面の黄巾討伐に、朱儁と孫堅とが当たって戦果を挙げたのは史実だ。「孫堅伝」によると、朱儁が黄巾討伐に抜擢されたとき、孫堅を部下として連れて行くことを願い出ている。
理由は直接書かれていないが、朱儁は会稽郡の出身で、黄巾の乱よりも前に、孫堅が会稽郡の賊の反乱を平定したことがあるので、孫堅のことを聞き知っていたからだろう。
どうやら演義の作者は、この二人の関係性に劉備を割り込ませることで、多大な功績があった劉備が、不条理にも不当な評価しか受けなかった、という演出の総仕上げをしたようだ。
- 張宝を斬ったという第四戦は、実際は朱儁ではなく、皇甫嵩の事績だ。それをあえて朱儁の事績にすることで、朱儁と共に戦った回数は、劉備のほうが孫堅よりも一回多い、という状況を作った。(直前の張角撃退も、朱儁が知っているという点では、二回多いとしてもいいくらいだろう。)
- 南陽での第五戦は、史実では、あらかじめ朱儁と孫堅とで共闘することになっているわけだが、演義の孫堅は、劉備と同じく、アポなしで朱儁の軍に加わる。
この状況だと、劉備と孫堅とは立場として水平で、むしろ盧植を介した劉備が優位になり、しかも、劉備のほうが戦功が多い。にもかかわらず、共闘した朱儁が二人の功績を上表した結果、孫堅だけが官位を得て、劉備には、自ら申し立てをするまで、何も官位が与えられなかった、と演義は演出する。
これでは、さすがの仁愛の人劉備もブチぎれる。なんと腐った世界か、と官職を棄てて逃げるのも当然だ!
と、読者は思わされてしまう。
いやもう、こうして丹念に調べてみると、全く嘘偽りの話をどっかから持って来ているわけではないのに、何としても三兄弟に、「判官びいき」的な憐憫の情を、向けさせようとしてくる。この巧みに情報を操作する手腕には、これがまさに
いっそ清々しい
の用例か!と、感慨ぶかくなるほどだ。
一番条件が厳しい劉備を、曹操、孫堅と並べようとするのはムリ
本当にこういうことがあったとして、劉備にだけなにも沙汰が無い、なんてことはあり得ないからこそ、歴史書での劉備は、黄巾討伐の末に、ちゃんと無位無官から、安喜県(あんきけん)の尉(い)になったんだろう。
ところが、その初任官の職を棄てて、劉備が逃亡したのは史実だ。
だから、演義では、あえてそれを伏せず、そんな下級役人では見合わないと、たくさん功績を盛り込んで、むしろ劉備を正当化した。
だが実際、無位無官の人間が、そんなにいきなり功績を挙げることはムリだ。仮に、それほどの功績があったとしても、高官の子息でもない人間の、初任官の出発点としては、そんなものだろう。一旦、そこに就くからそのあと昇進していく。
生まれた境遇が、父親が早く死ななかっただけ、劉備よりは幾分まし、という孫堅がまさにそんな感じで、県の尉(い)からスタートして、この時点で朱儁の部下に、と請われるまでになっている。そこまで十年以上はかかっているのだ。
劉備、孫堅よりは、はるかに恵まれた環境のはずの曹操でさえ、初出仕から約十年経って、今回の黄巾討伐の末の昇進で、やっと太守クラスだ。
役人の世界とはそういうものだし、漢王朝に仕えるとはそういうことだろう。
曹操(155年生まれ)、孫堅(156年生まれ)、劉備(161年生まれ)は、およそ同じ世代だが、劉備が一番若く、孫堅と五歳も年が違う。おまけに、三人の中では、生まれた環境が一番厳しい。その彼が、ここからスタートするのだから、他と並べようとすること自体に、ムリがあるのだ。
人物をすり替えるもう一つの演出手法
それでも、正統派「蜀びいき」の演義は、それを押し通すことを理念として作られているから、ここでもう一つの常套手段が用いられている。
- 何らかの書物から、上手くストーリーに取り込めそうなエピソードを探す。
- 見つけたエピソードについて、適宜登場人物を入れ替えて、蜀陣営を盛り上げるエピソードとして活用する。
この第四戦、第五戦は、この手法が用いられた最初の例だろう。対張宝戦も南陽戦も、史実にある出来事だが、巧みに登場人物を入れ替えたことで、
功績の少ない孫堅が昇進して、より功績を挙げた劉備には官位すら与えられなかった。
という演出に成功した。
これは非常に巧妙な手法だ。本来、その人が成したはずのことをすり替えることで、すり替えられた側の功績を無くせるだけでなく、すり替わった側に功績を移せるわけだ。そうしておいて、両者を同時に登場させれば、一方を無能、他方を有能、と読者に認識させることができる。まさに一石二鳥だ。
今回は、完全に孫堅から手柄を奪い取るまでの演出ではなかったが、この手法は以降も度々用いられ、特に呉国の人々が、その格好のターゲットとされる。神様である関羽を殺した呉陣営の役割は、演義において、徹底して蜀の引き立て役だからだ。
怒りの感情をコントロールする修練の場としての演義
と、どうにかこうにか、ここまで書き上げることができた。まったくもって、推しが呉国の私にとって、いかに冷静にと心を鎮めようとしても、やはり
ふつふつと腹の底でとぐろを巻いている怒り
の感情は、そう簡単に消し去れるものではない。
何の官位も与えられなかったって、そもそも、あんたたちそこにいないじゃんっ!!!
と思うのは、自然な感情だ。私の一推しは、お父さんのほうの「孫堅」なのだから。人が心を動かされるのは、自分と関わりのあるものに対してだ。
巧みな手法を操る演義の作者の矜持
まあ、ここまで我慢したので、一応叫んで発散した。だが、冷静にと努めて、ここまで調べてみたことで、今は、怒りが消えたわけではないが、単に怒っていただけの状態ではなくなった。何より、演義の作者は、
- 正統派「蜀びいき」のストーリーを組み立てるために、当然、虚構を用いる。
- しかし、その材料には、何らかの既存ソースにあるエピソード以外のものを使わないことを、己に課している。
という気がしてきている。
作者は、独自のストーリーを編み出す程の、文学的センスは持ち合わせていなかった、と言ってしまえば身も蓋もないが、そういうわけではないと思う。
演義は、これまで見てきたように、その世界観をもって、史実を脚色して展開するフィクションだ。だが、演義以前の三国志を扱った物語たちが、あまりにも史実を捻じ曲げすぎて、とんでもファンタジーになってしまっていたのとは一線を画す、という気概を持って登場した作品でもある。
たとえフィクションでも、自分の好きに書いてしまったら、そうした先行作品と同等になってしまうかもしれない。それゆえに、丁寧に既存の資料に当たり、作品の品位を貶めないエピソードを厳選して、物語を作り上げているのだと思う。
呉国推しの私には、とても冷静な状態では読めないほどの、また、現代的な感覚では、ほとんど経歴詐称や名誉棄損になりそうなほどの、そんな手法が用いられていたとしても、この作者は、悪ふざけでこのようなことをしているのではない。丹念に資料を読み込んで、「蜀漢正統論(しょくかんせいとうろん)」のバイブルたる書物を、作り上げようとしているのだ。
実際、このあと、ストーリーが三国時代の終結まで進んでいくのだから、読み込まなくてはいけない書物は『三国志』にとどまらない。今回の皇甫嵩や朱儁の活躍については、『三国志』が扱わない範囲だから、『後漢書』なり『資治通鑑』なりを読まなければならない。また、終盤の話になれば、今度は『晋書』も参照する必要がある。
正史とされる歴史書だけでもこの通りで、もちろん作者は、その他の膨大な野史、また、先行する物語の類いにも、目を通しているのだろう。
演義の作者は、先行資料をよく収集し、読み込んで、うまく利用している。そのことが、よくわかってきた。
そもそも、今のように情報処理のためのツールが充実してもいない時代に、この時代の膨大な情報を時系列に並べるだけでも、相当な労苦の産物なのである。そこは、忘れてはいけない。
わかることで不安が無くなる
呉国推しの私が、「蜀漢正統論(しょくかんせいとうろん)」のバイブルたる演義を読んでいくのだから、腹の底でふつふつととぐろを巻く感情は、今後も居座り続けるかもしれない。
しかし、演義を丁寧に読み返すことで、新しいこと、誤認していたことに気づき、ただ漠然と、
演義は三兄弟ばっかり持ち上げて、呉国(ごごく)の人たちを不当に扱う、嫌な話
と思い込んでいることで起こる、怒りの感情からは、少しずつ解放されていくはずだ。
結果として事実は変わらなくても、自分は何に怒っているのかが、わかることが大事なのだ。そこが明らかになれば、自ずと感情は変わっていくし、その点についての見方を変えることで、感情をコントロールすることもできるようになるからだ。
今回の部分は、演義の作者にとって、劉備たちの大活躍を全力で演出して、大いに盛り上げたい箇所だから、のっけから、とても困難な作業になった。なんとかここまで形にすることができて、ホッとしている。
一番気の毒に思う劉備のこと
ちなみに、歴史書では、督郵をムチ打ったのは劉備である。これはよく知られたすり替えだし、最後に書こうと思っていたら、ここまでが長くなりすぎて忘れていたが、これも歴史書との相違点なので、書いておく。
まあ、呉国の人たちの扱いについては、
もう慣れた
という気分のところもあるけれど、自分たちのヒーロー同士でまですり替えを行うというのは、現代的には無しだろうなあと思う。
「蜀漢正統論(しょくかんせいとうろん)」的にそうなったのだろうが、本当に、かえって蜀の人たちのほうが、気の毒な面があると思うようになった、その一番気の毒なのが、劉備だ。
督郵殴って、指名手配犯みたいになってるはずなのに、どうやって何進のお仕事をゲットしたんだろう?
孫堅の手柄に便乗なんかさせるより、そこを想像したほうが、はるかに面白い。
ところがまた、史実の劉備は、せっかくつかんだ、下蜜(かみつ)の丞のお仕事も、辞めてしまうのだ。くだんの督郵にしても、その肩を持つ義理は無いが、劉備を軽んじて会わなかったというだけで、演義が描写するような賄賂の要求はしていない。それで怒って辞めてたら、こんな時代に、仕官なんかできないだろう。
仮に、「会いたければカネを寄越せ」というような要求があったとでもいうのなら、相手を斬ればいいのだ。諸葛亮が、「泣いて馬謖を斬る」ぐらいの時代だ。法に照らし合わせて、おかしなことをしている者は斬られる。後漢王朝に勤めていた曹操、孫堅には、そうした場面で、実際に斬ったという逸話が残る。「治世の能臣(のうしん)」とは、そういうことだ。
その過酷さには、現代の感覚では同調できないが、そうした厳格さをも持てない場合、やはり、この時代の仕官は難しいだろう。
劉備という人は、実際に本人と会った人にしかわからない、超絶的なカリスマ性を持った人、と私は思うが、とにかくサラリーマンに向いてない。だから、漢王朝は、彼の勤め先として成立しない。それでも、国の仕事がしたいなら、自分が、皇帝になるしかない人だ。
ああ、そうか。劉備が義の人と言われるのに、どうして違和感があったのかが、わかった気がする。
幼き日に劉備が、
「俺は、きっと、こういう立派な車(→ 皇帝の乗る車)に乗ってやるぞ」
と言ったと「先主伝」にあるじゃないか! 彼が目指していたのは、初めから自分が皇帝になることだ。今の今まで気がつかなかったなんて、私も相当、演義の考え方に縛られているんだなあ。
追記|劉備に対する違和感について、じっくり考えてみた
【2026年5月29日 追記】ここまで書いて締めくくったあとに、これも今の今まで気がつかなかったことだが、とんでもないことに気がついた。よもや、このエピソードを演義でも採っているとは、思ってもみなかったのだが、物語の出だしで劉備が登場するところで、あろうことか、演義もこのエピソードを載せていた。
しかも、歴史書では「立派な車に乗る」だが、演義では「天子になって立派な車に乗る」と、よりはっきりと、自分が皇帝になると発言させている。また、それを聞いた叔父の反応も、歴史書では「そんな不敬なことを言えば、家門が滅びるぞ」と、劉備をたしなめているのに、演義では「なんと人並外れた大志をいだいていることか」と、感心するというものになっている。
これが、千年以上もかけて醸成された、「蜀漢正統論(しょくかんせいとうろん)」というものなのだなと、本当に驚いた。劉備は「漢」の国を興して、それまでの漢王朝を継いだのだから、「天子になる」という発言は、不敬にはならないのだ。しかも、演義は、劉備を景帝の玄孫(げんそん)だの、献帝の皇叔だのとし、本人にも周りにも、事あるごとに漢王朝の血筋だと語らせる。
さすがに、中国の「蜀漢正統論(しょくかんせいとうろん)」を、日本の読者が推し量ることはできないと考えたためか、日本の「通俗三国志」では、簡略版に限らず、この劉備の「立派な車に乗る」宣言は、カットされている。この発言の扱いだけを見ても、いかにその時代の作品には、その時代の考え方が反映されていることか、と改めて感じる。また、先にも書いたが、「歴史書に有るから事実とも言えない」ということの、最たるものが、こうしたセリフだ。セリフに関しては、本人がそう言った、というより、「そういう発言をしうる人物」と周りが見ていた、と捉えておくのが無難だろう。{alertSuccess}
そうか。私は呉国の人たちへの扱い以上に、この劉備の扱いにも腹を立てていたということが、はっきりした。
誰かが漢を滅ぼすのを待って、それを再興することは忠義なのか
曹操の子の曹丕が、魏を建てて後漢が滅んだからこそ、劉備が「再興」することができるのだ。また、劉備が、漢王室の血筋だと主張できるなら、もっと、献帝との血のつながりが近い一族はいた。にもかかわらず、献帝が亡くなったという誤報を聞いた途端に、「漢です」とか言って、自分が皇帝になったのが、劉備だ。
劉備が「劉」という姓ではなく、興した国の名前が「漢」ではなかったとしても、同じように正統な後継王朝として扱うのかと考えたら、いかに表面上のことかがわかる。劉備自身というよりは、さすがの知将、諸葛亮以下の群臣たちが、そこをうまく利用した、ということであり、できうる形で漢を再興したのだから、それでも正統ということだ。
そして、そこまでスピーディに、はばかることなく、蜀陣営が「漢」を興したのは、既に前例があったからだ。新の建国によって滅びた前漢を、まさに再興する形で建国されたのが、後漢だ。
関羽の仇討ちで、孫権とケンカする劉備に、本気で漢を再興する気概があったのか、と考えると、劉備にとって、それは大きな問題ではなかった、と私は思う。諸葛亮が劉備についた理由は、まさにその前例にならった大義名分を掲げられる人物が、この時代には、劉備だったから、ではあろうけれども。しかし、その諸葛亮でさえも、その大義名分をもって、あくまでも「新しい国」を作ることを目指している、とやはり私は思う。
大衆の想いが生み出した、神様の筆頭は、関羽、諸葛亮だ。だが、彼らが神様なのは、彼らを後漢王朝への忠臣と捉えているからではない。あくまでも、彼らは劉備に対する忠臣だし、後世にはそれぞれ商売の神であったり、軍神であったりもしている。そして、劉備もまた、あくまでも、その関羽、諸葛亮の主君に過ぎない。だから、劉備の神様ランクは、先の二人からしたら、グッと下がる。
劉備を漢の正統な後継者とする、というその理屈はわかる。だが、演義が、劉備をあたかも、「後漢王朝最後の皇帝、献帝(→ 劉協)が認めた、忠臣」のように描写することは、全く理解できない。
という、違和感だったのだ。
体を張ってこそ忠臣、という「忠臣観」
体を張って、献帝のために働いたことがあるのは、宦官たちに連れ去られたときの盧植、反董卓連合のときの曹操、鮑信、孫堅、洛陽で食べるものにも困っていたときの張楊、などなどという感じで、本当に、献帝は散々な目に遭っている。まあ、曹操も、このあと献帝を、傀儡(かいらい)にしてしまうわけだが、董卓に焼き払われて荒れ果てた洛陽から、許(きょ)に移ったことで、そこからは救われた、とは言える。
直接、なにもしてなくて、「それは不徳の致すところだけれども、心配はしてて、逆賊を討つ気はあるんだよ」(漢中王になったときに、劉備が献帝に宛てたお手紙より)とか言ってれば忠臣、果ては正式な後継者っていうのは、虫がよすぎる。
ここで、自分の中に潜む「忠臣観」が発動しているのだ。
魏が建国された後も、献帝は存命だった。禅譲だから殺されたりはしていない。一旦断絶した漢を復興するなら、献帝が、再度帝位に就けるようにしてこそ、忠臣だ。いくらなんでもずっと誤報を信じていたわけでもなかろうに、もう自分たちが漢を興したから、献帝はどうでもいいようなのは、断じて忠臣じゃない。
実際のところ、私は、新田義貞も楠木正成もよく知らないし、忠臣蔵も名前ぐらいしか知らない。忠犬ハチ公なんていうのもあるな、と思うけど、本当に名前しか知らない。そんな状態で、とっくに「主君のためなら」なんていう時代でもなく、「忠臣」などという感覚は、今の自分と少しも接点が無いものなのにもかかわらず、心の底に「忠臣観」が潜んでいる。
主君のために、たとえ、目的が果たせなかったとしても行動し、果ては命まで懸ける者が、世に言う忠臣だ!
と、確信している自分がいる。新田義貞らが、そういう文脈で語られてきた日本で生きている自分には、自覚が無くても、その魂が宿っている。
理論上の正統な後継者と、愚直なまでに主君一すじの臣下とは、全く次元が違う。それを、前者だから後者でもある、とすることに対する、いらだちだったのだ。
(自分の中に、未だこうした忠臣観が潜んでいるとしても、決して、主君一すじがいい、と言いたいのではない。そもそも近年では、「人間、そんなに滅私奉公ができるものか?」という疑問が出てきて、従来の考え方に捉われない解釈が、かつての逆賊たちに対してだけでなく、忠臣たちに対しても出てきている。ここでは、「天然素材だから、体に優しい」みたいな捉え方が、安直すぎると言いたいだけだ。)
劉備は、忠義な優等生じゃなくて、乱世を痛快に生きたアニキ
劉備は、自分も皇帝になることを目指して、実際に皇帝になった、群雄割拠時代の一群雄だ。演義がのっけから、やたらと漢王朝の血筋を強調して、それの心強い味方のように描写するものだから、すっかり騙されていたけれど、これで、化けの皮をはがすことができた。
といっても、この化けの皮は、劉備を少しでもよく見せようとした、歴史家に始まる「もの書き」が被せたもので、本人が被ったものじゃないけど。
中国全土に安寧をもたらすために、もう後漢王朝ではダメだと考えるなら、新しい王朝を自分が建てるというのも充分にありだ。劉備は、そういう文脈で語るのがいい。実際、「治世の能臣(のうしん)、乱世の奸雄」の曹操と違って、劉備は乱世だったから、世に出た人だ。
配下の諫めも聞かず、関羽の仇討ちに命を懸けた劉備という人は、乱世を、三人で、おもしろく、生きたのだと思う。
やっと、劉備について、自分で納得のできる解釈に至れた。なんだかよくわからないことからくる、不安が無くなれば、以前ほど腹は立たなくなるはず。難題が一つ解決してよかった。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。次回は、朝廷内のドロドロ内輪もめストーリーです。お楽しみに。(というのも、変な感じですが。)
画像の出典
タイトル画像として利用した画像の出典を、以下に示します。この画像をご利用になりたい場合は、「国立国会図書館ウェブサイトのコンテンツ利用規約」に従って、下記URLの原本よりご利用ください。
「張飛、督郵を鞭うつ」って、こんな絵まで描かれてしまって⋯⋯。張飛がやったんじゃないのにね。それでも、張飛はこんな汚名もかぶるのかな。三兄弟の結束の固さは、演義の虚構ではないわけだから。
BGM:どーだい 安全地帯(1986年)No. 6
