「虎の威を借る(狐)」というタイトルで、高校の教科書によく載っている話がある。
だがこの話、出典の『戦国策』ではそんなタイトルは付いていない。また、「威を借る」という表現は本文中にも出てこない。
確かに、本文中の狐の行為は「威を借る」で問題は無い。しかし、あくまでも「威を借る」のは狐であって、このタイトルは狐主体の方向性を示している。
ということは、この話を読んで、
虎はそんなにアホなのか? もっとしっかりしろ!
と、まあ別にそんなことはどうでもいいとは思いつつも、心の中を覗いてみると虎寄りの思いがなにがしか存在している場合、この「虎の威を借る」というタイトルが違和感を生む。
「虎寄り」目線だと、タイトルは「狐に威を借らる虎」であって欲しい。元々、原典にタイトルは付いてないなら、それでもいいんじゃね?
そのことについて、考えてみる。
No. 2
「虎の威を借る狐」はこんな話
狐が虎に捕まって、今にも食べられそうになった。そこで狐は一計を案じ、「自分は天帝公認の百獣の王である。それを食うことは天帝に逆らうことと同義。疑うならばついて来い」と、虎を後ろにして歩き出した。すると、他の獣たちが皆、彼らを見て逃げ去って行く。それは、前を行く狐を皆が恐れるからだ、と虎は信じ込んだ。実際、皆が恐れているのは、後ろにいる虎自身であることに気づかずに。
『戦国策』巻14・楚策 1(一部を意訳・要約)
狐が狡猾というより虎が愚鈍なのでは?
出典の『戦国策』楚策 1 の節で、割と出だしに近い方に載っている。
今日的には、
虎の威を借る(狐)|自分は大したこともないのに、他者の権勢を利用して偉そうにしていること(人){alertSuccess}
という意味のことばになっている。その故事である。
確かに、この話では狐が偉そうにしているが、人間から見てもより怖いと思うのは虎だ。だから、
という筋立ては理解できる。
また、これは動物がしゃべっているということで完全に寓話だ。だから、現実の世界でそんなことが起こるかなどと考える必要は無く、たとえ話が非現実的だという非難は当たらない。
だが、どうもしっくりこない。何十年前の初読時にも、しっくりこなかった記憶がある。
それはなぜかと改めて考えてみて、
この話自体に原因があるのではなく、この故事から導かれる成語の方に原因がある
と気づいた。
この話を読んで私が憂うのは、狐の狡猾さというよりは、まず、虎のアホさなのだ。
「狐に威を借らる虎」の方が収まりがいい
別に狐が前を歩いていなくたって、虎にとっての外界風景はいつもそんな状態のはずだ。だから、他の動物が逃げ去る動機が、そのときに限って「狐にある」と思い込む必然性が無い。
そこにおいて、たとえ話自体の出来の悪さも感じる話だ。だが、実際そうなったと語られているからには、「おい、虎! しっかりしろっ!」と声を掛けたくなる。
本文に書かれている内容から、虎が騙された理由をムリヤリ考えるなら、
とでもするしかない。
天帝が認めた強さなんてものは虎の概念の中には無かったから、そんなものがあるのかとすっかり騙されてしまった、とでもいうところか。そう考えると、他者の「未知のゾーン」を巧みに突く狐の狡猾さというのも際立ってはくる。
だがそれ以上に、それにコロッと騙される虎の方が、やはり心配だ。だから、導かれることばとしては、
狐に威を借らる(虎)=巧みな言説で取り入る者により権力を流用され、それに気づかないこと(人)
の方が、私としては腑に落ちるのだ。
かえって遠くなった「虎の威を借る狐」
さて、自分の視点が虎主体の方向性にあったから、狐主体の「虎の威を借る狐」では落ち着きが悪かったのだ、とわかった。
しかし、だからといって、故事成語が「狐に威を借らる虎」に入れ替わってくれるわけでもない。かえって、腑に落ちなさの原因(=視点が真逆だった!)がわかったことで、自分と、このことばとの距離が遠くなってしまった。
何か、もう少し納得のいく方向へ持って行く手がかりはないか。
それを探るため、この話の背景について調べてみた。
虎と狐にたとえられた人たちの実際
この寓話が語られたのは、『資治通鑑』の記述によると紀元前 353 年である。舞台はその当時の中国だ。
当時はまだ、中国大陸に諸国が立ち並ぶ「戦国時代」で、諸国で献策をして自らを売り込む人たちが活躍した。『戦国策』は、そうした人たちの言動を中心にまとめられた書物。{alertSuccess}
『戦国策』によれば、このエピソードの前に、北方の魏と趙との争いに際し、南方の楚が趙への援軍を出すということがあった。楚が軍を動かすと言っても、王が戦場まで出向くことは稀で、実際に赴くのはその下にいる人たちだ。
その状況を受けて、「自分よりも臣下の方が外国に睨みを利かせているだと?」と楚の王(宣王)が思うようなことを、進言する者がいたのだろう。
それで、王は群臣に問いかけた。
それに答えて、江乙という人物が語り出したのが、この寓話なのだ。
本当に「虎の威を借る狐」という実態があったかどうかは不明
江乙は、このたとえ話で、宣王を虎に、その臣下の昭奚恤を狐にたとえている。
たとえ話どおりだとすれば、
- 宣王 = 配下に好き放題を許している愚かな王
- 昭奚恤 = 王の権力を利用して傲慢に振る舞う臣下
ということになる。
だが、そんなたとえ話をされてしまうほどの二人の実態は、『戦国策』の記述には見られない。あくまでも、江乙の言うところとして、先の魏との戦いに際し、昭奚恤が収賄をしたという話が挙がるだけだ。
他にこの二人について詳述する書物も無いようで、二人に関しては情報が少ない。
魏のスパイ江乙の主張は「虎の威を借る狐」
一方で、このたとえ話をして、王を虎、昭奚恤を狐と言ってのけた江乙という人物は繰り返し出てきて、昭奚恤を失脚させるための讒言を述べる。
ここで重要な点は、
ということだ。
『戦国策』は、前節で述べたような性質の本。だから、「虎の威を借る」の話に関わっている人物の中で一番この本が注目しているのは、おもしろいことに虎でも狐でもなく、そう語った第三者たる江乙という具合になっている。{alertSuccess}
寓話へのネーミングは間違っていない
この「虎の威を借る」のたとえ話は、江乙による昭奚恤攻撃の皮切りで、攻撃はその後もさらに続く。
『戦国策』の宣王の節に大きく 11 個のエピソードがあって、そのうちの 8 個は江乙がらみで、さらにそのうちの 6 個が昭奚恤攻撃という量の多さだ。{alertSuccess}
直前の戦のこともあり、楚で力を持っている昭奚恤を失脚させ、あわよくば自分が後釜に座って、魏に利するように楚を動かそうというのが、江乙の狙いのようである。
だから、江乙はこの寓話に続けて、
と述べる。兵力という威を借りているに過ぎない昭奚恤をけなしつつ、兵力の持ち主である王によいしょしているのだ。
彼が糾弾したいのは、「虎の威を借る狐」だ。だから、この寓話をそう名付けたことは間違ってはいなかったのだ。
寓話の語り手である江乙の視点 = 狐に借りられた威は虎に属するもの。偉大なのは虎で、それを借用していい気になっている狐は小物。
語り手に愚鈍な虎という意図が無いとしても
寓話の語り手本人が、「虎が威を借りられた」ことには焦点を当てておらず、「借りられたとはいえ威そのものは虎に属するのだ。偉いのは虎なのだ」と力説していた。
つまり、私はこの話を読んで、
宣王 = 配下に好き放題を許している愚かな王
という位置づけなのだと思ったが、語り手の意図はそうではなく、
だったわけだ。
そこには、虎を憂う視点は無いわけだから、「狐に威を借らる虎」にはならない。また、語り手の一番の目的は狐たる昭奚恤の糾弾にあるのだから、「虎の威を借る狐」、まさにその通りだ。
「じゃ、そういうことで」と、ここで終わりにしてもよいところだ。だが、何かひっかからないか?
虎が狐に騙されたことまでは覆らない
確かに、虎・狐・その他の獣たちという三者の間で、「他の獣を恐れさせる威」が本当は誰にあるのかについての認識がどうであろうと、その威は虎にあるのは間違いない。
だが、このストーリーでは、知恵比べにおいて、明らかに虎は狐に負けている。
「狡猾な狐が器の大きい虎を騙したのだ」と、狐の狡猾さを強調すべく狐が嘘をつく設定なのだろうが、翻ってそれが、その嘘に騙された虎という構図を生んでしまっていることも、また確かなのだ。
依然として残るひっかかりの正体
実際、「自分よりも昭奚恤の方が他国から恐れられている」と王自身でも思う節があったからこそ、宣王は群臣に問うたのだろう。つまり王は、狐の嘘に騙された虎状態だったのだから、寓話はその状況と合致はしている。
だが、宣王の期待は、
- 「いや、そんなことはありません」という方向の答えが群臣の前で示され、
- 昭奚恤よりも自身の方が威厳があるのだと自他ともに認める状態となって、
- 自身の不安が解消されること
ではないだろうか。単なる事実の確認なら、群臣の前で問うこともあるまい。
そう考えると、確かに江乙は、「真の畏怖の対象は王だ」とは言っている。しかし、
- 虎の威と虎とは不可分だが、兵力と王とは別個のものだ。恐れられている兵力が王のものだというのは、逆に王自身の威厳を他国が恐れているのではないと言っていることにもなる。
- 王は自分が「昭奚恤よりも軽んじられている」と思って不安に駆られている。それを、狐に騙された虎の思考と同じとしている。
ということでもあるのだ。
全く何の関係も無い私が読んで、「虎はバカ過ぎないか?」と思ったのだ。虎本人はこれを聞いてどう思うのか。
いかに語り手江乙に愚鈍な虎という意図が無かろうと、受け手の宣王もそう捉えるとは限らない
ではないか。それが、ひっかかりの正体だ。
虎の前で使うのはあまりにもリスクが高いことば
この話を聞いた宣王が、江乙の主張どおりに受け取れば、「悪い狐に気づかせてくれてありがとう」となる。結果、「わしの権力を笠に着るなどけしからん!」と、江乙の期待どおりに昭奚恤が失脚することになるのだろう。
だが、江乙はあくまでも昭奚恤を失脚させたい魏のスパイであって、王のお抱えカウンセラーではない。
彼にとって、宣王の問いかけは昭奚恤の株を下げる絶好の機会なのであって、問いかけた王の心に寄り添うことが最優先課題ではないのだ。だから、前節で見たように、王の期待に応えていない要素が多分にある。
とはいえ、宣王が狐に騙された虎状態になっているのも、そんなことで不安になるような王には威厳が無いのも事実。だから、一歩引いて「そうか。わしはそういう状態であったのか。それに気づかせてくれてありがとう」という展開もあるかもしれない。
だが、そんなメタ認知に至れる状態なら、そもそもこんな問答をしていないだろう。
メタ認知|自分自身について、客観的に捉えること。{alertSuccess}
であれば、王への配慮の足りていない江乙の答えに対し、宣王が「狐に威を借らる虎」と侮辱されたと取る可能性も限りなくある。「貴様は、わしがそんな狐に騙される虎と同じだと言うのかっ!」ってな具合で、江乙の首が飛んでいてもおかしくなかったのだ。
この時代、解雇されるという比喩表現ではなく、本当に首が飛ぶなどの刑罰になる。言説は命がけだ。{alertSuccess}
虎の実態は少なくとも「狐に威を借らる虎」ではなかった
宣王の反応はどうであったのか。『戦国策』はその後のことを明確には記していない。その記述からわかることは、
- この話を聞き終わっての宣王の反応は書かれていない。
- (前述したように)その後も、江乙は昭奚恤攻撃を続けた。
- 江乙の言い分を受け、宣王は昭奚恤の言い分も聞いた。
ということだ。
つまり、江乙の首も飛ばなかったが、昭奚恤の失脚もなかったのだろう。何らかの決着があったなら、書いてありそうなものだから。
宣王は、可もなく不可もなくの日和見主義的な人だったとも言えるかもしれないし、バカな虎なんてたとえられはしたものの、その実なかなかの策士だったとも言えるのかもしれない。
再三、昭奚恤の悪口を吹き込まれて、それを採用するわけでもないのによそ者をずっと置いておくのには、何か意図がありそうだ。そもそも発端の問いかけさえも、新参者江乙の腹を探る端緒だったのかもしれない。
何にせよ、すぐカッとなるタイプではなかったのは確かだろう。
たとえ話をされた本人の実態が「狐に威を借らる虎」ではなかったのだ。であれば、寓話の虎を心配したところで仕方あるまい。
ということで、ようやく虎への憂慮から解放された!
よく理解していないことばをやみくもに使うのは要注意
いずれにしても、虎の目の前で「虎の威を借る狐」譚をぶちまけて無罪放免だった元祖江乙の例は、レアケースだ。前節で考えたように、
- 魏出身の江乙を、何らかの形で逆に利用しようという意図が、楚の側にあった。
- 宣王はカッとなりやすい気性の人ではなかった。
と、こんな条件が恐らくはあったから、事無きを得たのだ。
どこかの虎の威を借る狐のような人物について、「そういうのはイヤだね」と言う分にはよそ事だから、それほど害は無いだろう。
だが、近いところにいる虎の威を借る狐、ということになると、狐たる人物からも虎たる人物からも睨まれそうなことばではある。
よく考えもせずに「知ったかぶり」でことばを用いると、かえって墓穴を掘る可能性があるぞ
という教訓として、リアルの世界ではしまっておくのがよさそうだ。
No. 2